ただのぶろぐ

きままに

大阪五人衆・明石全登と明石康元国連事務次長、忠犬ハチ公の関係 ~果てなく秋田に続く真田ストーリー2~

 

オフロスキーこと小林顕作さんが真田丸で演じる「明石全登」について。

matome.naver.jp

 

劇中でキリシタン大名として登場した明石全登ですがどういった人物なのでしょうか。

www.nhk.or.jp

rekijin.com

真田丸内では九度山で謹慎中だった信繁を迎えに来ておりました。
名前は「ぜんとう」「てるずみ」が一般的だそうで、真田丸内では「てるずみ」となのっています。なお、キリシタン大名ゆえ、洗礼名は「ジョアン」という伝承があります。

 

備前保木城主・明石行雄の子として生まれた全登は、宇喜多直家・秀家に仕えました。1599(慶長4)年、お家騒動の後には、家宰として宇喜多家の取り仕切りを担っています。

1600年の関ヶ原の戦いでは、主君秀家に従い西軍に属します。伏見城の戦いや杭瀬川の戦いで勝利を収める武功を上げました。本戦では、宇喜多軍の先鋒を務めました。しかし、善戦しましたが、小早川秀秋の裏切りをきっかけにくずれ、結果として破れました。このとき、主君秀家に退却をすすめました。

その後、秀家は八丈島へ流罪となります。

全登は岡山城に戻ると、そこは主君の居ぬ間にあらさえており、そこから浪人の身となりました。

 

浪人となった全登を庇護したのは、同じくキリシタン大名であり縁戚だった黒田如水であったといわれています。しかし、その息子、長政がキリスト教を禁じるようになり、全登はここを出てキリスト拠上を保護した柳川藩田中忠政を頼ったとされています。

 

全登が歴史上に再び現れるのは、慶長19(1614)年に大坂の陣が勃発した時のことです。
彼は突如として数千のキリシタン兵を率いて参戦したと伝わっていますが、これが本当ならめちゃくちゃカッコいいですね。キリスト教禁止の方向に動いていた徳川方に付くという選択肢はなかったのです。

冬の陣では目立った活躍はありませんでしたが、夏の陣での全登の存在感はずば抜けています。
道明寺の戦いで後藤又兵衛を失いながらも、伊達政宗などと交戦し、混戦に乗じて相手の同士討ちを引き起こすなど損害を与えました。
そして、天王寺・岡山の戦いでは300名の決死隊を率い、真田信繁らと協力して徳川家康の本陣を狙いました。全登は敵の背後に回り込み突撃するはずでしたが、真田隊などが破れたため、やむなく敵の包囲網を突破して退却することになります。

全登の生死は定かではなく、戦死したとも落ち延びたとも様々な説があります。生存説のなかには、彼がキリシタンであったことから南蛮逃亡説まであるんですよ。

また、秋田県比内町には全登の子孫という人たちが住んでいるそう

戦後、全登が伊達政宗に保護され、その後に津軽津軽信枚の元に身を寄せたという話で、彼の息子たちは比内町の扇田という場所に居を定めたのだそうです。

その子孫が秋田県出身で国連事務次長を務めた明石康氏です。
事実、生まれは大館市比内扇田地区出身。

f:id:haruki26p:20161106081425p:plain

 

ひとつきになるのは、明石家に全登から伝わる像が「仏像」であるという謎。
キリスト像じゃないんかい!もしかしたら詳しく調べてみたらキリスト像である可能性もあるもんね。NHKあたりに調べてもらえないかしら。

 

なお、忠犬ハチ公明石康氏の母方の実家生まれ(斉藤義一家)というもの。

www.yomiuri.co.jp

全登とハチ公はつながらなくても、明石康氏を通じてつながる。

歴史はつながって面白いですね。