ただのぶろぐ

きままに

1915年8月22日付秋田魁新報 秋田中学 全国高校優勝野球大会準優勝の軌跡 当時の記事書き起こし

大正四年八月二十二日

 

三對一にて

秋中早稲田を破る

 

秋田中學對早稲田實業の試合は二十日午後一時より大阪に於て開始されたり共に関東の代表者の事とて頗(すこぶ)る興味を以て迎へられしが秋田は先つ二點を収め早稲田又一點を獲互(えたがひ)に比敵しつつ進み最後に秋田又一點を加へ遂に三對一にて秋中の勝利に歸したり

尚ほ前日山田中學と試合の概況は第一回大会にて山田方の三塁手が敵走者を本塁に詰腹切らせんとして捕手に投せし悪球が見當違ひにすほ抜けて不覚の一點を秋田軍に興(あた)へて劈頭氣勢を揚げしめ山田軍代つて攻め秋田投手長崎の熱球を十字火投球に打撃を封せられて三度振の死屍累々たり

一方秋田勢は三回の表に於て野口が四球に出渡邊第一打者長悍に力を籠めて打つて放ち球は浅く守りし中堅の頭上を越えて二塁打となり野口少年本塁に突貫すれば亦長崎の右翼犠牲飛球にて牙営に躍進し得點三を算ふ更に越えて第四回秋田の猛襲再だび廻り来り

一死満塁の好機を齎(もたら)す山田方の投手おそくも死球を叩きつけて走者を心太(ところてん)押しに押し出して又一點、次の打者斎藤二塁手遊撃手共にバットの備えを立て位置を進めて居る隙を狙ひし斎藤の飛球は二塁の右に安打となり歸雁翼を雙(なら)べし形に二者本陣に驅け込み此時早くも零對六といふ決勝的数字を示す様な破目となり

第五回の終り迄毎回三四の戦士を並べて討ち止められ得點掲示板に〇のの字動かざざりし山田軍は此の形勢にゲームを進め行かば或ひは悲しき零敗の汚辱を受くるに至らんやも知るべからず我人共に其の成行きに注目したるが第六回の裏、山田軍二死にして走者二塁に在り折柄發憤打撃板に立ちしは同球團中の快漢澤山速球魔球何かあらんと畢生の努力を雙手に集め憂飛ばせば熱球唸つて二塁の右を矢の如く飛び此救ひの一撃に置監(旧字体)勇躍長驅して本陣に轉がり込み漸く其辱を脱し得たるは敗れ乍らに聊か自ら慰め得る點ならん

 

大阪朝日の概評左の如し

是も其の實力の上より見て先づ順當の勝負と云ふを得可し、殊に秋田の投手長崎は中等學校チームとしては有数の好投手として大會前より驕名を馳せつつありしが果して此の試合に於て其の眞價を發揮し火の如き熱球と巧妙なるコントロールとによりて殆ど敵軍の打撃を封じ去りしと同時に此の猛投手の下に修練を經たる自餘の選手皆相應応の打撃力を有し毎次山田の投手西川の球を打ち捲りて勝戦の基礎を作りたり、

然るに山田方は何故か最初より意氣揚らず殊に秋田の投手長崎の球は主として速度一方の直球なれば今一層の工夫だに積まばマサカ十餘箇の三振を喫するまでには至らざりしなる可く其のうちに一二本の安打を飛ばして一々度チャンスに遭遇すれば忽ち大に一軍の士氣を振興し假令及ばざる迄も敵塁に肉薄し得たらんものを全試合を通じて安打となりしものは僅かに澤山が第六回目に打ちとばせしゴロの一本あるのみ、他は悉く三振か凡打かに破れて少しも機會を作る能はざりしは遺憾と云ふ可し、

然し主将澤山の活動振りは攻守ともに水際立ち敵の遊撃手小山田に優る事〓等、捕手菊川も亦敵捕手に比し稍優れりと思わるる點少からざりしか大厦の倒潰せんとするや一木一柱のよく支へ得可きものに非ず味方の失策と敵の好打は遂に其の大差を以て配線するの餘儀無きに至りたり、其の他秋田は走塁に於ても山田に比し一日の長あり加ふるい奥羽六縣人会の聲援を負ふて終始旺盛なる元気を持續し殆ど的をして乗ずるの機會無からしむ云ふ


翌日の1915年8月23日付記事書き起こしはこちら↓

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