秋田県大館市 真田幸村(信繁)の墓
↑↑前回のお話と若干リンクします。
真田信繁の墓は全国各地に散見されます。
historivia.comhttp://historivia.com/cat3/sanada-yukimura/559/
上記にまとめられているだけでも8か所。
義経のチンギスハン伝説のように、あの徳川を追い詰めた日の本一の兵(つわもの)が簡単に死ぬはずがない。当時の民衆のそうした意識が、全国に散らばる墓の数を物語っているのではないでしょうか。
非常に興味深いです。
ここには嫡男大助も一緒に眠っているそうです。
こちらの地蔵堂は、かつて大館に来る前に巡礼していた際に背負っていた張子の地蔵尊が祀られているそうです。
写真は共に 真田幸村の最期の地、大館 - 秋田県大館市 からの転載です。
さて、秋田県の北部、大館に真田幸村の墓があるという推測は以下のように成り立つのではないでしょうか(半分根拠なしで願望も含みます)。
1615年に討死したとされる信繁(ここから幸村とします)は、実は生き延びていて主君である豊臣秀頼を連れて、薩摩国(現在の鹿児島県)に渡ります。
京都の童唄には以下のような歌が流行ったことが大阪夏の陣後に確認されているそうです。
「花のようなる秀頼さまを鬼のようなる真田がつれて退きものいたよ加護島へ」
当時鹿児島を治めていたのは、戦国大名島津氏。
島津も西軍についた外様大名なのですが、おとりつぶし、転封の嵐が大きく吹き荒れていたあの時代、しかも敵方西軍についたにもかかわらず、本領安堵となった、ある意味奇跡の大名であります。
背景には琉球等を含めた対外貿易の利益を重要視した島津氏を尊重、あるいは警戒して、争うのは百害あって一利なし、としたのではないでしょうか。
そういった状況下から、幸村らが豊臣方の重臣で、徳川も安易に手を出せない、鹿児島の島津氏の庇護の下、しばらくを過ごしたと想像することは難しくないでしょう。
さて、島津氏が徳川方に恭順の意を示すとその状況は一変したことでしょう。
そこで秋田の佐竹と薩摩の島津の共通点が重要になってきます(妄想です)。
数ある戦国大名が成り上がりの戦国大名であるのに対し、この2大名のみが鎌倉時代から続く大名(守護大名がそのまま戦国大名)であるという点です。
当時は多くの大名が、関係性を築くために娘を嫁がせ、嫁にもらいで、互いに血縁関係におくことでその関係性を強固に築いていったことは周知の事実です。
鹿児島と茨城の大名だった彼らにそれがあったかどうかは不明ですが、交流は少なからずあったはずです。
何らかの手をうち、島津氏は幸村を送り出した。
鹿児島を発った幸村はどこへ向かうのか。
そこで安住の地を探した幸村が向かうべき、安全性が最も確保されやすいのはどこか。
東北に、お田の方が大名の正室になっているあの国があるじゃない!
現在の大館がある地域は御田の方がいる亀田藩とは異なる藩ですが、佐竹氏との関係も深い藩であることから、御田の方の嘆願で、人目につきにくいところにかくまわれた、と考えることもできるのではないでしょうか。
最後に幸村は信濃屋長左衛門と名乗り、大館で生涯を終えます。一節には1641年とされています。
大阪夏の陣から25年ほどたったとすれば、70~80歳でしょうか。
兄の信之が93歳の長寿を全うしたと考えれば、長寿でも不思議ではないでしょう。
晩年は農耕や真田紐の生産、さらにはお酒を商うなどして生計をたてていたという伝承もあるそうです。
そこで提案です。
地元の酒蔵 北鹿さん!
日本酒新銘柄「幸村」の醸造はいかがでしょうか。
さて、
真田丸放映前。一心寺がある大館でこんな話題で持ちきりになりました。
二人がどんな話題に花を咲かせていたのか。想像すると胸熱です。